近藤喜文バイオグラフィー
生誕−1970年代
1980年代
1990年代−死没

月日 近藤喜文の軌跡(生誕−1970年代
1950 03/31 新潟県五泉市に生まれる。
1965 04 新潟県立村松高校に入学。在学中は美術部に所属。1年先輩で現在は漫画家の柳沢きみお氏が部長を務めていた。
1968 04 上京して新橋の東京デザインカレッジに入学。大塚康生、熊川正雄らによる講義を受ける。
07/21 映画「太陽の王子 ホルスの大冒険」(高畑勲演出)公開。この作品に感銘を受け、本格的にアニメーションを志す。
  「長靴をはいた猫」を制作中の東映動画を連日訪ね、大塚康生に入社を頼み込む。しかし、当時の東映動画は経営が厳しく、新人採用制度も廃止していたため、入社は叶わなかった。
10/01 大塚康生の勧めで、不定期採用によりAプロダクションに入社。
1969 05/13 ルパン三世」のパイロットフィルム(シネマスコープ版)が完成。劇場用長編として企画された同作であるが、東宝が買いしぶったために企画が頓挫する。近藤は動画を担当。
  TVシリーズ「巨人の星」の動画と原画を担当。同シリーズ制作中に動画から原画に昇格する。
  この時期、日本映画放送産業労働組合の活動に積極的に参加する。
1971 09/01 自主制作の短編映画「つるのすごもり」公開。制作事務と原画を担当。
  TVシリーズ「新オバケのQ太郎」の原画を1本担当。
  TVシリーズ「ルパン三世」のオープニングと3本の原画を担当。
  年末に腎臓疾患が悪化し、翌年の春先まで入院。
1972   TVシリーズ「赤胴鈴之助」の原画を6本担当。
  TVシリーズ「ど根性ガエル」の原画を32本担当。シリーズ中盤からは作画監督も務めるが、クレジットには表示されていない。
12/17 映画「パンダコパンダ」(高畑勲演出)公開。縄跳びのシーンの原画を担当。
1973 03/17 映画「パンダコパンダ 雨ふりサーカスの巻」(高畑勲演出)公開。水没した家の屋上での食事シーンの原画を担当。
1974   TVシリーズ「はじめ人間ギャートルズ」の原画を10本担当。
12/28 同僚の山浦浩子と結婚。
1975   TVシリーズ「ガンバの冒険」(出崎統演出)の原画を4本担当。エンディングの止め絵も描く。
  TVシリーズ「元祖天才バカボン」の原画を18本担当。
1976 09/09 Aプロダクションがシンエイ動画へと改組、引き続き同社に所属。
  TVシリーズ「まんが日本昔ばなし」の原画を1本担当。
1977 04/23 PR映画「草原の子テングリ」(大塚康生演出)完成。原画を担当。
  TVシリーズ「まんが世界昔ばなし」の第33回B『かめがのろのろあるくわけ』のキャラクター、作画、美術、背景と、第43回B『仕事をとりかえたおやじさん』の演出、キャラクター、作画を務める。
  TVシリーズ「おれは鉄兵」の原画を3本、絵コンテを1本担当。
1978 04/01 「アニメーションの本 動く絵を描く基礎知識と作画の実際」が合同出版から発行される。近藤は第3章「アニメートの基礎知識」を担当。
  TVシリーズ「未来少年コナン」の原画を6本担当。作画監督の大塚康生に随行し、日本アニメーションに出向して制作に参加する。
第2話のおじいを亡くしたコナンが泣き叫ぶシーン、第3話のコナンとジムシィが取っ組み合うシーンなど、シリーズ前半の印象に残るシーンの原画を担当。
  TVシリーズ「まんが偉人物語」の作画を1本担当。
06/20 日本アニメーションに移籍。
1979 01/07 TVシリーズ「赤毛のアン」(高畑勲演出)放映開始。全50話のキャラクターデザイン、作画監督を務める。
当初、これらの役職は小田部羊一が務める予定だったが、本人が辞退したため、宮崎駿の推薦により近藤が抜擢される。
月日 近藤喜文の軌跡(1980年代
1980   TVシリーズ「トム・ソーヤーの冒険」の原画を14本担当。
12/16 日本アニメーションを退社し、テレコム・アニメーションフィルムに移籍。
1981 06/08 TV「姿三四郎」」(三家本恭美演出)放映。原画を担当。
08/16 TVシリーズ「花王名人劇場 東海道四谷怪談」(鈴木一演出)放映。オープニング原画を担当。クレジットの表示は無し。
11 「名探偵ホームズ」の制作が開始され、近藤もメインスタッフとして制作に参加する。しかし、著作権の関係から制作が中断され、フィルムの完成は4話までだった。
1982 08 日米合作の劇場用長編「リトル・ニモ」制作のため、ロサンゼルスに渡って約1か月の特別講習会に参加する。
1983 03 先に降板した宮崎、高畑の後を受け、「リトル・ニモ」の日本側の演出に就任。 
1984 03/11 お蔵入りとなっていた「名探偵ホームズ 青い紅玉の巻/海底の財宝の巻」(宮崎駿監督)が「風の谷のナウシカ」と併映で公開。
丹内司、友永和秀と共同で作画監督を務める。
08/08 「リトル・ニモ」制作の中断が藤岡により発表される。プロデューサーのゲーリー・カーツが解任され、近藤も演出を退任となった。
11/06 TVシリーズ「名探偵ホームズ」放映開始。近藤が制作に携わった全6話分も同シリーズにおいて放映される。
12 「リトル・ニモ」制作中に描かれたイメージボードやスケッチをまとめ、パイロットフィルム版「NEMO」を完成させる。
近藤は監督を務める。
1985 01 ディズニーがテレコムに発注した「ワズルス」のプロモーションフィルムの原画と作画監督を担当。
03/16 テレコムを退社し、フリーとなる。 
06-08 自然気胸のため入院生活を送る。
1986 01 契約社員として日本アニメーションに復帰。
  TVシリーズ「愛少女ポリアンナ物語」の原画を11本担当。
1987   TVシリーズ「愛の若草物語」のキャラクターデザイン(メインキャラのみ)と原画を3本担当。
01 日本アニメーションを退社。フリーとなる。
02/01 高畑に誘われ、スタジオジブリに移籍。「火垂るの墓」の制作に入る。
尚、同時期に宮崎も「となりのトトロ」の作画監督に近藤を熱望しており、話し合いの結果、鈴木敏夫の提案で絵の描けない高畑が監督を務める「火垂るの墓」への参加が決定した。
1988 04/16 映画「火垂るの墓」(高畑勲監督)公開。キャラクターデザインと作画監督を務める。
1989 07/29 映画「魔女の宅急便」(宮崎駿監督)公開。大塚伸治、近藤勝也と共同で作画(実質的な作画監督)を務める。
09/11 スタジオジブリに正式に入社。
月日 近藤喜文の軌跡(1990年代−死没
1991 07/20 映画「おもひでぽろぽろ」(高畑勲監督)公開。キャラクターデザインと、近藤勝也、佐藤好春と共同で作画監督を務める。
  「おもひでぽろぽろ」の制作終了後、入院して肺の手術を受ける。
1992 07/18 映画「紅の豚」(宮崎駿監督)公開。ポルコとカーチスによる殴り合いのシーンの原画を担当。
11/23 TVスポット「そらいろのたね」(宮崎駿監督)が日本テレビ系で放映開始。絵コンテと演出を務める。
1993 05/05 TV「海がきこえる」(望月智充監督)放映。同窓会のシーンなどの原画を担当。
  近藤が日常的に描いていたスケッチを清書したイラストが、「ふとふり返ると」と題して「月刊アニメージュ」9月号から連載される。
連載は近藤が逝去するまで続けられ、最終号は1998年2月号。
11 宮崎駿より柊あおい原作の「耳をすませば」の企画を打診される。
1994 07/16 映画「総天然色漫画映画 平成狸合戦ぽんぽこ」(高畑勲監督)公開。狸たちの合戦のシーンなど、モブシーンを中心に作画(実質的な原画)を担当。
1995 07/15 映画「耳をすませば」公開。監督を務める。これが最初で最後の長編アニメーションの監督作となった。
1996 07 TVスポット「『スタジオジブリ原画展』TVスポット」が日本テレビ系にて放映。演出、原画を務める。
07 TVスポット「『火垂るの墓』金曜ロードショー放映告知スポット」が日本テレビ系にて放映。演出、原画を務める。
1997 04/04 日本テレビ系列の「金曜ロードショー」にて、近藤が演出、原画を務めたオープニングが放映開始。2009年3月27日まで放映。
07/12 映画「もののけ姫」(宮崎駿監督)公開。安藤雅司、高坂希太郎と共同で作画監督を務める。
1998 01/21 午前4時25分、解離性大動脈瘤のため死去。満47歳没。通夜は東京都清瀬市の全龍寺で行われる。
03/31 近藤の48回目の誕生日に当たるこの日、「月刊アニメージュ」に連載されていた「ふとふり返ると」が書籍化され、「ふとふり返ると−近藤喜文画文集−」として徳間書店より発行される。
2000 01/31 近藤のキャリアをまとめた書籍「近藤喜文の仕事―動画で表現できること―」がスタジオジブリより自主発行される。

太字…近藤喜文が実制作に携わったアニメーション作品
赤太字…近藤喜文がメインスタッフ(作画監督、演出、監督等)として実制作に参加したアニメーション作品
赤字…近藤喜文がメインスタッフ(作画監督、演出、監督等)として実制作に参加したアニメーション作品のサブタイトル
青太字…近藤喜文が原作あるいは著作のアニメーション以外の作品
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